秩父の武甲山はかわいそう?石灰岩の採掘の歴史を知ると、ありがたさしか感じない

秩父の武甲山をご覧になったことはありますか?

秩父の市街地から見ると、山の半分が削られて、痛々しい姿の武甲山。

グーグル検索でも「武甲山 かわいそう」という検索ワードが出てくるほどです。

かわいそうな姿に見える武甲山について、武甲山を見て育った秩父人の1人としての感想を書いてみました。

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目次

秩父の武甲山がかわいそうと言われるその姿

武甲山がかわいそうと言うツイッターがたくさん流れています。

たしかに、グーグルの検索でも「武甲山 かわいそう」という検索ワードが出てきますね。

その原因は石灰採掘のために武甲山の北側斜面が削られているため⬇

しかも、盆地である秩父の市街地に面しているため、その異様な山肌がよく目立つのです。

武甲山がここまで削られてしまった歴史を調べてみました

秩父の武甲山の石灰岩の採掘の歴史

武甲山の採掘の歴史をまとめました。

江戸時代から石灰岩が採掘され、昭和になり大規模な採掘へ

武甲山から石灰岩が取れるということは江戸時代から知られていたそう。

江戸時代の頃は石灰は漆喰の原料として使われていたようです。

オーセン 佐藤

石灰を取ると行っても江戸時代ですから、少し岩を削る程度だったのでしょう。

しかし、明治期を迎えると武甲山の石灰はセメントの原料として、削られるようになります。

この時期から、一大石灰産業として武甲山の採掘が始まりました。

ちなみに、武甲山の石灰岩は良質で可能な採掘量は約4億トンとも言われています。

下記は石灰産業の変遷。

  • 1917年(大正6年): 影森で採掘開始、浅野セメントへ出荷
  • 1923年(大正12年): 秩父セメント設立
  • 1940年(昭和15年): 秩父石灰工業操業開始、大規模な採掘が進む
  • 1980年(昭和55年)9月: 元の山頂付近が採掘のため発破
  • 2002年(平成14年): 最高地点が標高1,304メートルとされる

1980年には本来1336mあった山頂までもが削られてしまいました。

そして、現在は1304mの標高となっています。

武甲山は日本の経済成長を支えた山

明治以降にセメントの原料となる石灰の供給源として削られた武甲山。

  • 関東大震災後
  • 戦後の東京再開発
  • 高度経済成長期の高層ビル
  • 交通網の整備

これら日本の発展のために尽力してきました。

同時に、地場産業として秩父の経済を潤してきた側面もあります。

それまで、秩父の経済を支えてきたのは養蚕業。

それに入れ替わるかのように、武甲山を軸に石灰産業が秩父の経済を支えるようになりました。

一時は秩父市と横瀬村(当時)の人口が7万人だったころ、うち1万人が石灰関係の仕事につく人とその家族だったと言う話もあります。

オーセン 佐藤

秩父の石灰産業のきっかけは、実業家である渋沢栄一と、日本林学の父といわれる本田静六の2人だったという面白い話も。➝こちらの記事

武甲山はいつか無くなるの?採掘はいつまで続く?

今後もまだまだ石灰の採掘は進むのでしょうか?

今後見込まれる可能な採掘量が4億トンとも言われています。

年間の採掘量が約600万トンといわれていますので、もし全てを取り尽くすと慣れば、見込み計算で70年以上続く見込みです。

とは言え、武甲山は北側のみが石灰岩の鉱床。

オーセン 佐藤

反対の南側は石灰岩ではないので、武甲山自体が無くなるわけではなさそうです。

ただ、北壁が大きく削られるために、世界でも類を見ない大岸壁が出来上がるのではという見解もあります。

【武甲山の昔と今】かつての山はどっしりとした風貌

今でこそ、北斜面は断崖絶壁の巨大ピラミッドのような風貌の武甲山。

採掘が始まる前の武甲山は強さと優しさを兼ね揃えたような形をしています。

武甲山の昔の姿

下記画像をお借りして掲載します。

⬇かつての武甲山

現在の武甲山の形と比較すると、どっしりとした強さと、包み込むような優しさすら感じられます。

また、森の植生も豊かそうです。秋の紅葉もきれいそう。

⬇現在の武甲山

片面だけ大きく削られ頂上は鋭く尖っています。

残っている森は下部のほうだけです。

オーセン 佐藤

手前の芝桜(4月後半頃)と武甲山の組み合わせが、どちらも人工的でシュール!

武甲山を削ってたたりは無いの?神殺しとは?

武甲山は古くから秩父の人々の信仰の山。

グーグルで武甲山の検索をすると【たたり】や【神殺し】と言った言葉が並びます。

たしかに、神様がいる山を削ってしまって大丈夫?と気になりますよね。

その点について私感を述べます。

もののけ姫で見る産業の発展と神殺し

話は飛びますが、ジブリの映画【もののけ姫】をご覧になったことがありますか?

ざっくり簡単に言うと、「タタラバ」で鉄を生産する【人間】とシシ神の森を守ろうとする【もののけ】の物語です。(←ざっくりすぎる)

鉄産業が栄えてくると、製鉄のために薪が必要になり森を破壊せざるを得ません。

それまで、人が立ち入らなかった自然の奥深いところまで、木材を調達する必要が生まれ、そこで木材を必要とする「人」と、森を守りたい「もののけ」の双方がぶつかってしてしまったというのが話しのあらすじのなかの一つです。

そして最終的には、神的存在の「シシ神様」が消滅してしまう設定です。

まさに、これこそが神殺しです。森を守ってきたシシ神様を排除しないと、たたらばで使う木材が手に入らなかったのでしょう。

オーセン 佐藤

きっと当時は産業の発展とともに日本各地で行われてきたことなのかもしれません。

神殺しは全国で行われていた

少し秩父から離れます。

筆者は屋久島でエコツアーガイドの仕事をしていたので、屋久島の話をさせて下さい。

屋久島と言うと太古の自然が残っていると思われがちですが、半分正解で半分は違います。

屋久島の山奥にあった樹齢数千年のヤクスギ森は、江戸時代初期の頃に薩摩藩の命のもと伐採が始まりました。

その際、島民たちは屋久杉を伐採することによる、神のたたりを恐れたそうです。

そこで、屋久島出身の高僧が山に籠もり、神の許しを請い、島民たちに言ったのが下記のような内容です。

「木を切る前に斧をその木に立てかけて、翌朝倒れていたらその木には神が宿っている証拠である。神の宿っていない木を切れば祟は起きないから大丈夫」

このように言って、島民の恐れを解いてヤクスギの伐採が始まったそうです。

いわばこれが「神殺し」。

オーセン 佐藤

神様という恐れを解く事で、自然深くまで人が入り込むようになりました。

武甲山の採掘は神殺しかもしれないが、その上に成り立つ今の生活

秩父の武甲山での石灰採掘は、最初は地元の人々にとって心を痛める出来事だったことでしょう。

武甲山は秩父の守り神的存在であり、神様のたたりを恐れるのは当然のことです。

しかし、「国のため、地元のため、人のため」と言われてしまうと、声高に採掘(産業)を否定することは難しかったのかもしれません。

そこに、秩父の人々の気質が現れているようにも思えます。

秩父の発展に尽力し、今も身を削って尽力してくれている武甲山。

私たちもその恩恵を受けて育ってきました。

削ってしまったものは取り戻せませんが、その事実を心に留めながら、今後の生活を考えていく必要があると想わずにはいられません。

まとめ: 秩父に育てられたものとして、武甲山にはありがたさしか感じない

この記事を書いている筆者は、秩父の生まれ&育ち。

途中、鹿児島県の屋久島でエコツアーガイドの仕事をしていたため、秩父に帰るのは年に1〜2回となった期間もありましたが、心にはいつも武甲山がありました。

確かに、削られ続ける武甲山を見るたびに心は痛むのですが、その身を削って人々の生活を支えてくれると思うと感謝の気持ちしかありません。

ならば、自然保護を唱えて、武甲山の石灰岩の採掘に反対する方法するべしという考えもありますが、その仕事で生活している人がいるのも事実。

それを否定することもできません。

なので、僕ができることはその自然に価値を与えることだと思っています。

今あるその自然に価値を与える。武甲山なら石灰を採掘するという以外の価値を与えたい。

オーセン 佐藤

ということで、もっと武甲山に新しい価値を見出すために、秩父の武甲山で森を楽しむハイキングツアーをはじめました。

自然の価値は多面的なので、一つでも多くの価値を与えることによって、武甲山は削るより、拝んだり、登ったり、眺めたりするほうがいいよね、と言われる時が来るかもしれません。

武甲山に登ったことが無い方は、ぜひ一度登ってみて下さいね。静かで不思議と心が落ち着く山ですよ。

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